20世紀以降、世界で起こった唯一の戦争であるイラク戦争

その当時のイラクの大統領であったサダム・フセインですが、ここでは彼が一体どんな人物で、どんな生涯を送り、最後を迎えたか。そこには、どのような真実があるのか等についてまとめました。

 

サダム・フセインの生い立ち

サダム・フセインは、1937年4月28日、イラクのティクリートで生まれ。

ティクリートはとても貧しい町で、生計を立てらなくなった若者はイラク国軍に入隊するという風潮がありました。そのくらい軍との距離が近かったこともあり、子供が銃を持ち歩くことが普通という大変物騒な町だったようです。

フセインは20歳のとき、イラクの一大政党であるバアス党に入ります。叔父のもとで育てられたフセインは、民族主義、反イギリス主義の思想に染まっていました。イラク国内で、要人の暗殺計画に加わりましたが、失敗に終わり、国外へ逃亡します。その後、数十年間フセインは表舞台に姿を現すことはありませんでした。

イラクでバアス党が政権を奪取した1960年代に、フセインは一時帰国しますが、牢に入れられてしまいます。その後、脱出し、政治活動に加わっていきました。党内外での権力争いにもまれながら、フセインは徐々にバアス党の中枢メンバーへとのし上がっていきます。そして、1979年、フセインはイラク大統領の座にたどり着きます。表向きは、「民主化」を掲げて、人々の支持を集めましたが、実際はフセインによる独裁体制が敷かれることになります。

 

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悪行

サダム・フセインは、自身の政治体制に歯向かうものが出てこないよう、秘密警察機関を設置し、人々を監視。容疑をかけられた人は諜報部隊によって連れてかれ、尋問、拷問にかけられました。中には、そのまま命を奪われてしまう人もいました。

フセインの徹底した情報管理、また人を疑う態度は、彼の家庭環境に依拠するところが大きいと考えられます。フセインは、生まれた時からすでに父親を亡くしており、母親は別の男性と再婚して、再婚相手との間に3人の子を出産。父親が異なる兄弟をもち、常に意識し合って暮らしていたことが後のフセインの人格を形成していったのかもしれません。

フセインの代表的な悪行の1つとして、少数民族の虐殺が挙げられます。1988年イラク北部のクルド人自治区(クルディスタン地域)で化学兵器を使用し、現地で暮らしていた多くのクルド人の命を奪いました。

その理由となったのは、隣国・イランとの関係です。1980年から1988年にかけて、イラン・イラク戦争が起こり、両国ともに甚大な被害を出しました。この戦争において、クルド人がイラン政府に協力したということを口実に、フセインはクルド人虐殺を正当化したのです。

また、フセインはイスラム教シーア派の住民の迫害も行いました。イラクでは、国民の過半数がシーア派を信仰していましたが、スンナ派であるフセインは自分の属する宗派を優先し、シーア派を攻撃したのです。

この恐怖政治によってクルド人、シーア派の勢力は抑え込まれ、独裁国家の色を強めていきます。

 

真実(功績など)

非道な大統領として知られているフセインですが、実はイラクという中東の貧しい国を近代国家に発展させたという実績があります。まず、イラクで採掘される石油を国有化し、外資を追い払いました。その結果、政府は石油輸出による利益を独占することの成功します。

石油で得た利益をもとに、フセインは国内のインフラを整備します。全国に電気網を敷き、国民が豊かに暮らせるよう、富を分配しました。また、フセインは農業の近代化も図ります。農業用機械を取り入れ、効率的な生産を行っていけるよう改革を行ったのです。

フセイン自身、「敬虔なムスリム」という一面もありますが、イラクをイスラム主義の国にしようとは思っていませんでした。中東では異色である世俗主義の国にしようという意思があったと言われています。フセインは、欧米諸国の文化に好意をもっていたようで、フランスの元大統領ド・ゴールを尊敬していたという逸話も残されています。

 

最後

フセインは、大統領在任中に2度、アメリカと戦争を行います。

1回目は、1991年に勃発した湾岸戦争、2回目は2003年に起こったイラク戦争です。

湾岸戦争は、イラクが隣国のクウェートに侵攻したことをきっかけに起こりました。アメリカを始めとした連合国は、「イラクをクウェートから撤退させること」が目的であったため、クウェートから撤退したフセインは命を奪われることはありませんでした。

イラク戦争では、アメリカはフセイン政権打倒を目的に攻撃を仕掛けたため、フセインはアメリカに追われる身となります。そして、2003年12月、フセインはアメリカ軍により拘束されます。

その後、約3年間にわたり獄中生活を送り、2006年12月に「イスラム教シーア派住民を殺害した人道に対する罪」により、イラク特別法廷から死刑判決を下されました。その4日後、バグダードの刑務所で絞首刑による死刑が執行され、フセインはその生涯を終えました。

 

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息子への想い

フセインには、5人の子どもがいました。中でも、長男のウダイ、次男のクサイは、フセインと並びイラク国内で広くその名を知られています。

ウダイは、度重なる失態からフセインの後継者レースから脱落し、代わりに次男のクサイが後継者として有力視されるようになります。しかしながらイラク戦争勃発後、この2人はアメリカ軍によって暗殺されました。父であるフセインよりも先に亡くなり、フセインは深く悲しんだと言われています。

獄中生活を送った際、フセインは

「もし、自分が新たに子をもうけることができたら、その子どもをウダイ、クサイと名付ける」

と医師に語ったという逸話が残されています。恐怖政治を行った独裁者にも、子を思う親としての一面があったのかもしれません。

 

まとめ

サダム・フセインをただの凶悪な犯罪者だと思っていた方は、ここで彼の様々な一面を知ることができたのではないでしょうか。

フセインの行動力とリーダーシップが、国を発展させた側面もあったのです。

また、これだけ強引で残虐なことをして血も涙もない人物かと思いきや、息子を想う気持ちはちゃんとあるようです。

日本でも大ブレイクした海外のサスペンスドラマ『24』でも、ほとんどのテロリスト達に家族に対して普通の人と変わらない愛情を抱いている描写があるので、やはりそういうものなんでしょうね。

味方と敵をはっきりと区別して、敵に対しては徹底的に排除しようとすることから、味方にとっては頼もしいし、敵や部外者からしたら危険分子として捉えられるのでしょう。